しあわせな揺り籠の中で
- Toma Higa
- 1月10日
- 読了時間: 8分
プレス機と焼却炉を見た時、今までに見たどんな死よりも惨たらしい終わりを迎えるんだと思った。そして、それがひどく恐ろしくなって、自分がそんな最期を迎えるに相応しいモノであることを差し置いて「死にたくない」とあらゆる拘束と制止を振り切って走り出した。僕の脱走を止めようとする職員をねじ伏せてひたすら施設の外へと走った。
何回か銃声が聞こえ、数発は身体に着弾したがそんなのも関係なかった。僕はただただ外へ、死にたくないから外の世界へ向かった。
音のない霧雨だった。雑木林の合間を縫って降り注ぐ雨粒は針のように肌を刺す。跳ね返った泥が撃たれた足に当たる。本当は痛いはずなのに、血を流すはずなのに、失うはずだった半身にその感覚は無い。ただただ無機質に逃避するための動きを繰り返している。
部屋を移されてから訓練をしていなかったのにも関わらず身体能力に衰えがない、むしろ向上さえしていると感じた。忌々しい。戦うためだけに生かされたのにそれすらもできなくなった今自分に意味など無いのに、生き残ろうとする能力だけは一人前に備わっている。
でもそれ以外は何も無い。
存在の意味だけではない、身寄りも、行くあても、目的も、方法も何もかも僕に存在していない。
今更どうしたらいいのかもわからなくなって脚の動きが止まった。
「選ばなければよかった」
一時的な感情に動かされてどうしようもないことになるのであれば、始めからそうしなければよかったのに。
記憶の中の死者が虚な瞳で僕を見つめている。
「死にたくなかったのはお前だけじゃなかったのに」
その通りだ。
「お前だけ逃げやがって」
本当にその通りだ。散々殺しておきながら自分だけ生き延びようとしていることがどうしようもなく恥ずかしくて、生きていることが忌々しくて、木の根に額をつけながら頭を掻き毟った。
獣の気配もない霧雨の雑木林、かなり遠方だが複数人の足音がかすかに聞こえた。
僕を追って来たか、それとも関係ない一般人か。耳を澄ませる。ある程度規則正しい足音、おそらく施設の職員だ。
このまま見つかればきっと最期を迎えられる、僕を咎める視線もきっと赦してくれる。でも遍く物質を押し潰し、灰すら残さないあの機械たちに放り込まれることがどうしても恐ろしかった。せめて、せめて、人として。
陽もほとんど落ちて、自分を見つめる瞳を強く感じながら逃避行を再開した。疎ましいことに左目は夜目も効くように作られている。職員も暗視ゴーグルくらい装備していると思うが、夜の森は軽々しく追跡を許しはしない。それにどれだけ訓練を積んでいようと生身の人間では僕に追いつくことは能力的に不可能だ。だってそうなるように改造されたのだ。
どこでもいい、誰でもいい、あの機械たちでなければなんでもいい。それすら赦されないのはわかっている。
だから、どうか、僕は僕の死に場所へ導いてくれ。
夢というものは体験した物事の記憶の整理だとされている。別途保存領域を増設されている僕のような物にその機能の必要性は無いと思うが、残った脳は夢を見せる。
死者が出てくることも頻繁にあるが、やはり、印象に残りやすい夢というのは逃げ出したあの時の光景だった。
あの日の記憶を追体験することが多いが、そうではなかった場合を見ることもある。遍く物質と一緒に押し潰される瞬間、灰すら残さない灼熱に放られる瞬間、あるいは向けられた銃口が火を吹く瞬間。
あり得た過去を夢に見て、最期を迎える直前に目を覚ましては自分がまだ生きていることを実感してしまう。目が覚めてそれが夢だったことを知ることは、どんな苦しい夢よりも僕を苦しめる。でも、過去も現在も変わることはない。だから身に余るほどの普通の幸福を享受する。そんな資格がないのにしあわせを与えられることを良しとする。
朝食を済ませた隣人が鼻歌を歌いながらスタジオに向かっていく。整備士の娘は父親が焼いたパンケーキを頬張って「美味しい」と笑っている。
「おはようEcho」
「おはよう」
「メカニック、レディ、おはようございます」
僕が欲しかったしあわせがここにある。僕が得てはいけないしあわせがここにある。
「メンテ日だからこれ食べたら整備室まで来るんだよ」
整備士が焼きたてのパンケーキを食卓に置きながらこの後の予定を告げる。彼の声色はいつも優しくて、労りを大切する人柄を表している。
「了解した」
綺麗な円形に焼かれたパンケーキが数枚重なった皿が置かれた席に着く。
溶けたバターとシロップに湿った表面にナイフを入れると、柔らかくてほどよい弾力が身体に伝わってきた。切った欠片を口に運べば温かくて、柔らかくて、ああ、彼の娘が笑顔になる理由がわかる気がする。そしてこの平和なひと時に自分がいることがひどく疎ましかった。
「おいしいよね。私、お父さんの作るパンケーキが好きなんだ」
「ええ、自分も好ましく思います」
嘘ではない。僕が嫌いなのは僕自身で、彼の作るパンケーキもそれを好きだと言う娘のことも好ましく感じているのは本当のことだ。
「エコーの好きな食べ物って何?今度お父さんに作ってもらおうよ」
朝からとても嬉しそうに楽しそうに娘が提案する。しかし好きな食べ物とは考えたことがなかった。それに今度という不安定な言葉に確かな信用を置くこともなかったから非常に困る。
「……好きな食べ物…考えたことがありません。こうして食事をできるだけで自分は十分なので」
「そっかぁ、でもいつか好きなのができたら教えてよ」
楽しそうな表情を浮かべていつ来るかもわからない未来に期待を寄せる姿に、どうしようもない愛おしさと自分の背を見つめる無数の瞳の存在を強く感じた。
「いつか、ですか。考えておきます。ところでレディ、今日は予定があると言っていましたが間に合いますか?」
「あ!!ほんとだ!ごちそうさま!!」
食器を片付けることも忘れて小動物が駆けていくように、忙しなくパタパタとダイニングを去っていく姿に年相応の未熟さを感じる。それでいい、僕の知ることのできない守られるべき者の純朴さが尊いのだ。
「メカニック、キッチンとダイニングは自分が片付けておきます。あなたのメンテナンスを待ってる人は自分だけではない」
「気を使わせて悪いね、でも任せるよ」
整備士もキッチンを後にして己の仕事へと赴く。ダイニングには僕一人だけとなった。
遠くから聞こえる他人の様々な声、物音、人の生活というのは穏やかで、生きているに疑問を持たなくてもよくて、僕がこれを享受するのはあまりにも罰当たりだと思う。
でも死にたくない。
この先を考えるのを意図的に止めるために残りのパンケーキを口に入れて飲み下す。あまいしあわせの味がやけに口に残った。
「指示通りメンテナンスに来ました」
「片付けを任せちゃって悪かったね、でもおかげで今日のメンテ予定はEchoだけになったよ!ささ、そこの台に座って座って」
整備士の言う通りに、およそ整理されているとは言い難い室内に佇む椅子、にしては机に近い形状をした整備台に腰掛ける。
そのために設けられた台というと、施設を思い出す。施設の天井は潔癖なほど白かった、そして施術もメンテナンスも自分は物だということを否が応でも理解させてくる扱いだった。痛覚が機能していないのになぜか痛みを感じた、でもそれを訴える資格はない。
でも今視界に入る天井は少し汚れていて、それに悪い気はしなかった。
「動かしにくいとか痛い部分はない?」
「いえ、至って良好です」
実際に動作を確認する整備士の手つきと扱いは非常に丁寧だと思う。少なくとも相手をモノ扱いしない。
「うんうん、不調ではなさそうだ。でもよく使う箇所は念のためもう少し確認するよ」
義足と義手を丁寧に外して作業台に優しく置いていく。そして首の根本にコードを繋がれる。この時の意識を無理矢理引き剥がされるような眩暈と、心身の支配権を他人に奪われるような感覚にはどうしても慣れない。痛いわけではないのだが、脳と神経を直接なぞられているような感覚に思わず目を瞑ってしまう。もっとも、僕の精神状態は機械的に管理されているのだから、それによって精神状態が変化するわけでもないのだが。
「すぐ終わるからね」
整備士がメンテナンスを受ける我々にかける言葉は子供を安心させるような言い方だと思う。僕はとっくの昔に子供ではなくなったし、堪えられないものではないのに、彼は優しく言い聞かせてくる。
「んんー、少し手入れておいた方がいいかな。Echo、ちょっと我慢してて」
「了解」
整備士が視界の外で何らかの作業をした後にカウントダウンが聞こえる。
僕の意識が強制的に落とされるまでのカウントダウン。ゼロのアナウンスと共にバチンと大きな音とフラッシュを知覚した瞬間、僕の感覚と記憶は途絶えた。
『システム再起動』
ライトに照らされる古びたコンクリートの天井が視界に映る。ああ、僕はまだ生きているのか。
「Echo、終わったけど大丈夫かい」
「ええ、メカニック、特に問題はありません」
若干だが思考が明瞭になった気がする。だからと言って思考自体が変わるわけでもなく、以前と変化したというわけではない。
「カメラとマイクに何かしましたか」
「部品に劣化があったから交換したよ。具合悪かったりする?」
「いえ、問題ありません。ありがとうございます」
部品を交換されることに対する遠慮でもなんでもないが、ただ、そこまでするほどの価値のない僕をどうしてここまで気にかけてくれるのか理解できなかった。
「次はドクターたちのところへ行っておいで。Echoの精神的な部分は彼らの方が僕よりも詳しいから」
手早く身支度を整えてドクターたちの仕事部屋へ向かおうと整備室を出ようとした時、整備士が後ろからいつもよりも幾分かトーンを落とした真剣な声で話しかけてきた。
「Echo、自分を追い詰めすぎてはいけないよ」
「……お気遣い感謝する」
咎めるでもない真っ直ぐな目で僕を見つめていた。あの眼差しを僕は直視することができない。
ただただ、日常の中に僕が存在していることを許せない。自分が幸福な日常を味わうだなんて、烏滸がましいにもほどがあると思っている。
だから僕はあの眼差しから眼を背け続けている。しあわせの揺り籠の中で僕は僕を見つめる眼から目を逸らし続けている。